2010/06/20

iPadが来た、海外で英語を学ぶ2つの効能

近ごろ、先週までの風邪がようやく治った。まだ完調とは行かないが、忙しいながらも比較的順調。

先日オフィスにiPadが届いた。薄くて硬い、ちょっと重い。特に私が気にいったのは「マップ」。Google Mapが見れるだけでは、と思われるかもしれないが、まず直接指で動かせるので、これまでPCで見ていたGoogle Mapよりもずっと直感的に使える。iPhoneでは画面が小さすぎて、ある程度広い範囲を見ることには向かない。そして、本の地図で一番面倒だったページ移動がいとも簡単にできる。まさに本屋で買っていた「地図」の正常進化。まるで地図を見るために生まれてきたデバイス。

オフラインでも地図を使えるアプリケーションが出る日が今から楽しみ。その日こそ、私が本の地図を捨てる日だろう。

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ここ数日、私の周りのtweetでグローバル化対応、主に英語習得に関する議論が喧しい。Twitterに触れてばかりいると、そういうTimelineがまるで世の中の潮流のように感じてしまうのはソーシャルメディアの怖さではあるが、下の楽天の例や来年度のパナソニックの幹部候補生採用枠など、これまで目立って見られなかった動きが広がっていることは確かである。

三木谷浩史・楽天会長兼社長——英語ができない役員は2年後にクビにします(1) | インタビュー | 投資・経済・ビジネスの東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/business/interview/detail/AC/810ee47297d49033c2a4b43a0a5216e0/


私は「全ての日本人が英語を使えるようになるべきだ」という意見には与しない。ここでの「英語」はあくまで情報交換の道具のことであり、「つなぎ」としての役割である。情報交換をするに値する情報を互いが持ってこそ、リングア・フランカとしての英語の使い出がある。世界は語ることにより現れ出るのかもしれないが、その元はモノ・コト・ヒトである。「つなぎ」にこだわる前に、世界とつながるに値する何かを、日本語を話す人々が作り出さなくてはならない。


一方で、そういう「つなぎ」の役割を担うことが、自らの能力やキャリアにとって大事な人たちもたくさんおられる。大学を卒業する人たち、大学で働く人たちはそのグループに入っているかもしれない。その中の一人としてどうすべきかと、この問題を「ワガゴト」と捉えて考えるとどうだろう。

例えば大学において、今の質と量を超える英語教育を直ちに始めることは難しいと思われる。なぜなら大学が一人の学生に対して教育を施せる時間は限られており、その時間は今でさえ既存科目と新設科目との間で取り合っている状況である。加えて、授業を英語で行えばいいのでは、という一見ウルトラC的な提案も、その実現に教職員の長期間にわたる英語の訓練が不可欠であるから、それをすぐに始めることは困難だろう。

それよりも学生に、できれば半年以上、海外で学ぶ機会を積極的に奨励するというのはどうだろう。これには二つの理由がある。一つは「英語は現地で学べ」という意味だが、もう一つはそれを超えている。もし海外に一定期間滞在すれば、帰国後にもれなく「〇〇さんは半年米国におられて…もう英語はペラペラですか?」と折に触れ尋ねられることになる。私自身、たった半年程度の滞在で大して英語を使う力がついたとは思えないが、社会的に「海外帰り」というラベリングを与えられることによる、期待(されているのか?)やプレッシャー(自意識過剰?)は、正直重い。

だがこのことが、帰国後の英語能力の維持向上に役立っているというのも事実である。一度でも海外で学ぶことは、結果的に滞在経験を超えて、その後の英語に対する態度や能力を大いに変えるきっかけになりうると、私自身の経験から日々感じている。