2009/02/17

建築家たちの、綺麗な「物語」

私の十年来の友人で、大東翼君という、ちょっと面白い人がいます。
彼は建築の仕事をしており、dot architectsという建築家アライアンス(と、私は勝手に思っている)を共同主宰しています。

dot architects
http://www.tcct.zaq.ne.jp/dot/

彼らがゲストとして都内に来るということで、仕事の合間を縫って様子を見に行きました。

「ROUNDABOUT JOURNAL」
http://www.round-about.org/2008/12/live_round_about_journal_2009.html

10人以上の建築家が一日かけてセッションをオムニバスで行い、最後に長時間のディスカッションをする裏で、イベントの様子を「ライブで」(!)雑誌にしてしまい、その場で発行してしまうというものです(ちょっと信じられない即時性)。そのために会場の裏では、数十人の編集者やデザイナーが、イベントの最中に原稿を書き、DTPをしていました。

残念ながら私は途中からの参加でしたが、会場のINAX:GINZAは建築学科の学生とおぼしき人たちで超満員。今回は「手の内側」というテーマで、それぞれの建築家が作品を引き合いに出しながら、自らの方法論を語り、時に戦わせつつも批評し合うというものでした。
P1010908.jpg

私には、そんな建築家たちが、ちょっぴり眩しかったです。
彼らはそれぞれ、日々それぞれ方法論の証左としての「モノ」を造っています。もちろん方法論一本槍ではなく、お客様の要望や種々の用件を盛り込んでいるのでしょうが、自分が作り出したものが「モノ」としてあり、そこにお客様が住んでいる(または使っている)というのは、とても素直な物語だな、と感じたのです。

対して、私もこれまで研究者として、また実務者としていくつものWeb上、ネットワーク上のシステムやサービスを作りはしました。しかし果たしてそれが「モノ」となり使われた時、またそれが研究業績になった時、それらは私のいろんな意味での「方法論」を支えるエビデンスとなっていたでしょうか。ただでっち上げたニーズとそこにあるシーズを組み合わせた産物ではなかったでしょうか?

だがしかし、たとえば私が普段していることを人に伝える時、何か形に残す時、その物語を支える一つの要素は、それら「モノ」です。それらが過去、今、将来にもちうる意味について、よーく考えなくてはいけません。

これは重い問題です。きっと一生ものでしょう。