2010/06/30

近況:6月前半

今月に入り、比較的体調は良好。どうやら今年の梅雨は軽そうで、このまま夏になってしまうのではないかというほど。水不足の心配もないそうなので、あまりジメジメしてくれないほうがありがたい。

職場では、私のオフィス「コンテンツ開発室」では新しい学生スタッフが3名加わった。文学部・経済学部・情報理工からそれぞれ1名ずつ。ビデオカメラや編集機などを使う職務上、理系の学生さんを中心に集めていそうだが、実は割合は文系の方が多い。特に大学院生になると理系の学生さんは学内のRAやTAになるなど、バイト先に比較的恵まれているのかもしれない。とにかく理系・文系にかかわらず、オフィスの学生スタッフのみなさんはとてもいい仕事をしてくれている。あまりよい条件のバイトでないと自覚していることもあり、とてもありがたい。

コンテンツ制作以外にも、今年頭からいくつか大きな案件があったが、少しずつ片付き始めた。後日お知らせできる予定。私は学部についた教員ではないので、授業やゼミを持つことはないが(実は授業は来季から持つ予定)、いわゆる「現業」が多い。今年度明けてから尋常でない量の案件が積み上がっていた。動き始めるまでに時間はかかったが、これで一安心。

研究活動について、昨年度進めていた高等教育初任者教員を対象にした実践の評価について、教育工学会の課題研究に応募した。随分と変わったテーマなので、どう受け止められるか、相当心配である。

…といった具合の、業務に研究に(あと授業も進行中)にと追われ続けた、6月前半でした。

2010/06/20

iPadが来た、海外で英語を学ぶ2つの効能

近ごろ、先週までの風邪がようやく治った。まだ完調とは行かないが、忙しいながらも比較的順調。

先日オフィスにiPadが届いた。薄くて硬い、ちょっと重い。特に私が気にいったのは「マップ」。Google Mapが見れるだけでは、と思われるかもしれないが、まず直接指で動かせるので、これまでPCで見ていたGoogle Mapよりもずっと直感的に使える。iPhoneでは画面が小さすぎて、ある程度広い範囲を見ることには向かない。そして、本の地図で一番面倒だったページ移動がいとも簡単にできる。まさに本屋で買っていた「地図」の正常進化。まるで地図を見るために生まれてきたデバイス。

オフラインでも地図を使えるアプリケーションが出る日が今から楽しみ。その日こそ、私が本の地図を捨てる日だろう。

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ここ数日、私の周りのtweetでグローバル化対応、主に英語習得に関する議論が喧しい。Twitterに触れてばかりいると、そういうTimelineがまるで世の中の潮流のように感じてしまうのはソーシャルメディアの怖さではあるが、下の楽天の例や来年度のパナソニックの幹部候補生採用枠など、これまで目立って見られなかった動きが広がっていることは確かである。

三木谷浩史・楽天会長兼社長——英語ができない役員は2年後にクビにします(1) | インタビュー | 投資・経済・ビジネスの東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/business/interview/detail/AC/810ee47297d49033c2a4b43a0a5216e0/


私は「全ての日本人が英語を使えるようになるべきだ」という意見には与しない。ここでの「英語」はあくまで情報交換の道具のことであり、「つなぎ」としての役割である。情報交換をするに値する情報を互いが持ってこそ、リングア・フランカとしての英語の使い出がある。世界は語ることにより現れ出るのかもしれないが、その元はモノ・コト・ヒトである。「つなぎ」にこだわる前に、世界とつながるに値する何かを、日本語を話す人々が作り出さなくてはならない。


一方で、そういう「つなぎ」の役割を担うことが、自らの能力やキャリアにとって大事な人たちもたくさんおられる。大学を卒業する人たち、大学で働く人たちはそのグループに入っているかもしれない。その中の一人としてどうすべきかと、この問題を「ワガゴト」と捉えて考えるとどうだろう。

例えば大学において、今の質と量を超える英語教育を直ちに始めることは難しいと思われる。なぜなら大学が一人の学生に対して教育を施せる時間は限られており、その時間は今でさえ既存科目と新設科目との間で取り合っている状況である。加えて、授業を英語で行えばいいのでは、という一見ウルトラC的な提案も、その実現に教職員の長期間にわたる英語の訓練が不可欠であるから、それをすぐに始めることは困難だろう。

それよりも学生に、できれば半年以上、海外で学ぶ機会を積極的に奨励するというのはどうだろう。これには二つの理由がある。一つは「英語は現地で学べ」という意味だが、もう一つはそれを超えている。もし海外に一定期間滞在すれば、帰国後にもれなく「〇〇さんは半年米国におられて…もう英語はペラペラですか?」と折に触れ尋ねられることになる。私自身、たった半年程度の滞在で大して英語を使う力がついたとは思えないが、社会的に「海外帰り」というラベリングを与えられることによる、期待(されているのか?)やプレッシャー(自意識過剰?)は、正直重い。

だがこのことが、帰国後の英語能力の維持向上に役立っているというのも事実である。一度でも海外で学ぶことは、結果的に滞在経験を超えて、その後の英語に対する態度や能力を大いに変えるきっかけになりうると、私自身の経験から日々感じている。

2010/06/03

「仕事漂流」、断片化された私たちの「物語」

週明けから気持ちのいい天気が続いている。梅雨のシーズンも近づきつつあり、今のうち精一杯楽しみたいところだが、残念なことに体調がよろしくない。流行りの風邪を引いたようで、週明けからずっと微熱があるようだ。そういう時に限ってここ数日会議に加え、オフィスで新たに採用する学生スタッフの面接が続く。周りのみなさんにうつさなければ良いがと心配するものの、大体の方は既にかかった後のようで、私が「しんがり」のよう。早く治ってほしい。

会議等々の他には研究ミーティングなど。今年度のJSETの課題研究にチャレンジしてみようかと、仕事の合間に原稿を書き進めている。出来心がどこまで通用するか…世の中そう甘くはない。

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先日から「仕事漂流」を読んでいる。いわゆる「就職氷河期」に、若者が就職活動から就労、転職に至る過程で何を考えどう行動したのか、複数の事例から語られている。



同じ世代の一人として、共感と驚きをもって読んでいる。一つ気づいたことは、特に「就職氷河期」以降、就職活動において若者は否応なく「私がどういう仕事をし、どういう人生を歩むか」というある種の自己イメージを持つことを要請されるのだが、その自己イメージが明確であればあるほど、就労後の職務との間でギャップを感じてしまう、ということだった。幸いなのかどうなのか、私はその種のイメージを全く持たず(というか、持つ暇も無く)就職してしまった。この種の自己イメージの膨張は、苅谷剛彦先生の言われる「自己実現アノミー」をもたらすと批評されることもあるが、この膨張は若者が自ら引き起こしたというより、環境により賦活されたものとも言える。

ある世代は同じ物語を共有している、と言われることがある。だが殊に働くことの物語について、これは同世代の中でも断片化している。この類いの本は世代を代弁するものと見なされるともあるが、私個人の印象でいうと、この本における各章の事例が多様であること、それら全てが私自身に驚きをもたらしたことは、同世代においても「大きな物語」が既に共有されていないことの証左のように感じられた。


加えて、それぞれの事例が時系列的に説明されているのではなく、その転機を境として前後しながら描かれている。同世代でなくても、純粋に読み物としても楽しめるであろう一冊である。