2008/05/11

「天才」を鏡とし、人は育つか?

ここ数日、「天才」にまつわるブログエントリーが各方面で見られます。

■「天才コンプレックス」 事の発端?
 http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20080508/1210268430
■コメント1
 http://e0166.blog89.fc2.com/blog-entry-470.html
■コメント2
 http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51047973.html

まず雑感として、「君は天才だ」「君には才能がある」の言葉は、自我の確立途中の幼少期には重荷かと思いました。ピグマリオン効果も計画的に。

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どんな時、人は他人を「天才」と感じるのでしょう。
それは他人の能力や行動が正しく優れ、且つ自分の理解を超えた時でしょうか。(正しいと言うのがポイント)
その意味で、天才とは場外ホームラン、自らの「バカの壁」の向こう側。
言い換えると、天才を感じさせる要因は、球場の広さや壁の位置、すなわち他人でなくこちら側にあると言えます。
天才を見るとは、己を知ることである。 天才とは、鏡。

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shi3Z氏はエントリーで「天才を最も理解した凡人の経営者になろう」と語っていますが、天才を見いだせることも一つの能力なのでは、と私は考えています。

能力とは自ら顕在化するのではなく、外から認識されるもの。
親が子どもに、人が恋愛対象に過大な評価を与えてしまうのは、この「感度」が高まっているため、つまりどのような人からも、自分に欠けた「何か」を探すことができるのではないでしょうか。

「天才とは鏡」を前提とすれば、「感度」を上げることは非常に重要です。
鏡を見て己の姿を知り身だしなみを整えるように、人の中に優れた点を見いだし、己の不足を知る。
弟子入り修行や同僚の中での学習でも、周囲から「学ぶ」姿勢や能力が、当人の伸びを左右するのではと思います。

「この人、天才だな…」と感じる人に出会っても、無力感に苛まれず、それを発見したことをむしろ喜ぶ。
「天才を認識できる、僕って(私って)天才!」
…もの凄い自己肯定かもしれませんが、そんな人が意外と「学びの天才」かもしれません。